今回ご紹介する書籍は、2011年の東日本大震災直後に出版された、
村上和雄著 『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』 です。
タイトル通り、「祈り」がテーマの本です。帯にはダライ・ラマ14世の言葉で
「村上氏の考えは宗教と科学の垣根を超え、すべての読者を調和の世界へと誘う
であろう」とあります。
私はこの本の装丁がとても好きです。(カバーデザイン:井上祥邦)
日の出でしょうか、全体にほの暗い、海をおもわせるような情景で、両掌の間
に陽の光を包み込んでいる。このひとはきっと自然にむかって祈っているので
はないか、と想像します。
一般に「祈り」はとても宗教的な行為と感じられますが、特定の神や仏への
信仰がなくても、人は自然に「祈る」のではないでしょうか。
ですから、人間が作った宗教ができる前から行っていた、もっと古くて
根源的なものかもしれません。
当時日本に蔓延していた不安で重い空気を思い出します。
そして今は、もっと重たく灰色の空気が世界規模となって、人類の上に覆い
かぶさっているようにも感じます。
今回ご紹介した抜粋の、江戸っ子のライフスタイルが書かれている箇所に、
私は大変惹かれました。
粋で、気っぷがよくて、人情味がある。それでいて、自立していて、お上の
いうことにも納得しなきゃ従わない。彼らは自然と調和し、所有することや
お金儲けに興味がなく、自由で楽しげです。江戸っ子は、現代の私たちが
忘れてしまった、素晴らしい精神性を持っていたのではないでしょうか。
村上先生はいつも、「ピンチはチャンス」とおっしゃっていました。そして、
人類にとって今ほどピンチの時はないかもしれません。だからこそ、すべて
の人にとって今は最大のチャンスなのだ…、そのように自分自身に言い聞か
せることもまた「祈り」と言えるかもしれません。
今回のキーワード:
・自分の内側からの声や、森羅万象の中にある「メッセージ」を聴く
・江戸の町は究極のエコシティ
・ネガティブな出来事すら「ありがたい」と受け止める
『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』 (ソフトバンククリエイティブ株式会社)
からの抜粋(・・・=中略マーク)
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あなたは「メッセージを受けとる」ことができる人ですか?
よりよく生きたい、いろいろな望みをかなえたい、悩みを乗り越えたい。
そうした祈りの効用を得るために大切なのは、「聴く」という姿勢です。
「聴く」といっても、いわゆる外部の音を聞く聴覚だけのことではあり
ません。自分の内側からの声や、森羅万象あらゆる現象の中にある「メッ
セージ」を聴く。それによって、自分の中に確信というものが生まれます。
自分が頭で考えているだけでは得られない、「本当はこうすべきなのだ」
という強い思いがわき上がってくるのです。「真実の声」に耳を傾ける
ともいえるでしょうか。
しかし、そんな見えないものの声を聴くだなんて、と思われるかもしれ
ません。でも、本当は、意識していないだけで、日々、私たちの命は
そうした声を聴きいろいろな場面で力を受け取っているのです。
・・・
祈る内容を定め、五感を研ぎ澄まし、自分の内側からも、己をとりまく
あらゆる物ごとからも、真実の声を受け取ることができる姿勢で生きて
いる人にだけ届くメッセージというのがあるのです。
しかしこれは、さほど特別なことでもありません。何かの問題について、
ずっと考え続けていて、別のことをしていたときに「ふと、答えが降っ
てきた」というような経験は大なり小なり、みなさんもあるでしょう。
無意識でありながら、なぜか不思議なことに、自分の内側ではどこから
かメッセージを受け取っている。形に見えないものが、意識という身体
活動上の働きに変換されるわけですから、当然遺伝子もその働きに関わ
っています。
これは、真剣な「祈り」に感応して、命のはたらきを高めるために、
スイッチがONになる遺伝子があるということ、そして、その遺伝子は、
五感を研ぎ澄ますことで強く働かせることができるのだということです。
・・・
例えば、これまでの知識や経験だけでは、乗り越えられないような試練と
チャンスが一体になって訪れたときに、「自分の内側でメッセージを受け
取れる人」「自分の内なる大きな力が出せる人」でなければ、せっかくの
チャンスも逃すことになります。
そして、祈りの効用を得たいのならば、まずは私たちの鈍くなってしまっ
た「五感を研ぎ澄ます」ことが重要になってくるのです。
・・・
自然本位で祈り、暮らしていく
個人的な願いはともかく、日本人として、これからの日本の復興のために
祈るとき、一体何を祈ればいいのか?という疑問を持っている方もいる
ことでしょう。私は、これからの日本は、地球、そして大自然と調和して
生きることができる社会を目指すべきであり、それが理想的な姿だと考え
ています。
それは過去の不便な暮らしに戻る、ということではありません。何ごとに
も、いき過ぎのない、自分たちも心地よく、自然にも余計な負荷がかから
ず災害にも対応し、あらゆる命が調和し循環していける社会です。
ある意味では、まったく新しい未来社会かもしれません。
そんなものは現実離れし過ぎた、夢物語だと思われるでしょうか。
しかし、発想を変えれば、そうした社会を日本人は、その昔、既に実現
していたのです。
ときは江戸時代。江戸の町は火事がたくさん発生していました。冬場の
空気の乾燥と、風が強いという気象条件に加え、一般の家屋は木と紙で
造られていたため、いったん火の手が上がると一気に燃え広がり、一度
の火災でかなりの面積が延焼していた、といいます。
この延焼面積を単純に計算すると、およそ270年の江戸時代の間に、江戸
の町は30回以上の消失と再生を繰り返したことになる、といいますから、
日本人の底知れぬ再生へのパワーというものを思い知らされます。
江戸の人々は、「火事が多い」という事実と折り合いをつけて、つまりは
調和して暮らしていたのです。
木と紙で家を造っていたのも、地震が多かったため軽い建材を使っていた
こともありますが、火事のときに建物を倒して延焼を食い止めるという
方法が取られていたこと、そして、焼失してもすぐに再建できるようにと、
簡素な住宅を造っていた、という一面もあります。
また、江戸の庶民は、「火事になったら失ってしまう」ために、必要以上
に物を持たない暮らしをしていたともいわれています。
日常的に使う布団や衣類、食器以外のものは所有せずに、必要に応じて
業者から借りていた。つまり、「自然」に自分たちを「合わせる」という
ライフスタイルを送っていたのです。
余計なものを所有せず、必要なものは長屋の隣近所で貸し借りし、ものを
買うよりは芝居や習い事、外食などにお金を使う。現代から考えても、
どこか気楽でうらやましいような暮らしぶりだったのです。
ほかにも、江戸の町は、100万都市から出される生ゴミを肥料として、
江戸を取り囲む周辺の農家にそれを売り、農家はその有機肥料を使った
作物で収入を得て、ゴミ問題を解決するという「エコシティ」であった
ともいわれています。町自体がひとつの大きな命として、生きていくため
に自然と調和するように考えられていたのでしょう。
興味深いのは、幕府が「火事で燃えにくい瓦屋根や土蔵造りの建物を
立てるように」と奨励していたのにも関わらず、それがほとんど定着
しなかった、という点です。
経済的な事情もあったのでしょうが、おそらく、「そんなことをした
ところで、自然にはかなわない」という人々の思いが、お上の言うこと
すら真に受けない、という形になって表れたのではないか、そんなふう
にも思えます。
何がなんでも自然に逆らって快適さを優先するために、高気密で密閉
された住まいやオフィスで過ごすのではなく、逆に自然に逆らわず、
自分たちを自然に合わせるスタイルで過ごす。そんな自然本位の逆転の
発想から、新しいアイデアが本当に生まれてくるかもしれません。
・・・
遺伝子のスイッチを「どこでもON」にする生き方
今の日本を取り巻く、さまざまな困難は、私たちがかつて経験したこと
のないようなものかもしれません。しかし、これまで述べてきたように、
この困難と危機は同時に、日本人が本来持っていた、大自然との調和に
よる恵みを大切にする生き方を取り戻す機会でもあります。
知識や情報、技術一辺倒で突き進むのではなく、「見えないものの働き」
の重要さを考え、私たちに大きな力を与えてくれる「サムシング・グレート」
の働きを呼び覚ます「祈りと行動」があれば、それは困難ではありません。
私たちは、困難をやりがいに変換できる遺伝子を、誰もが持っています。
それは、言葉の上のことではなく、科学的にも明らかになっています。
そのスイッチをONにするのも、OFFにしてしまうのも私たち次第。
せっかく、ONになった遺伝子のスイッチをOFFにしないためには、
「ダメ」というような、ネガティブな言葉は封印してしまいましょう。
・・・
そして、ネガティブな出来事すら「ありがたい」と受け止めるように
しましょう。
人間には相性もありますから、中には「馬の合わない人」がいるものです。
仕事でしかたなく付き合いがあるけれど、仕事でなければ顔も見たくない、
そんな人もいるでしょう。けれど、そういう人と縁あって接することも、
実は「ありがたい」ことでもあるのです。
その人は、あなたの反面教師としてあなたの人生に現れたのかもしれません。
あなたが人間として成長するために、あなたと接点を持っているのかも
しれません。
私は脳梗塞で倒れましたが、そのことで、生きていることの素晴らしさを
魂で実感できるという経験をしました。病に倒れたものの、同時にとても
「ありがたい」経験をしたと思っています。