今「祈り」の力に注目が集まっていると感じます。
村上先生は筑波大学を退官後、
「笑い」や「ポジティブな心」と「遺伝子」の働きとの
関係について研究され、
晩年は「祈り」によって遺伝子が変わることに対して
科学的エビデンスを得ること、を目標にされていました。
「祈り」という宗教的な言葉と
「遺伝子」というサイエンスの言葉のミスマッチに、
当初私はあまり理解ができませんでした。
スピリチュアルな世界は信じていたのですが、
科学とは別の世界のように思い込んでいたのです。
でも、長年村上先生の研究所で仕事をし、
たくさん村上先生の話を聞いて、本を読むうちに、
その両者は繋がっていること、
言葉を変えれば、
「祈り」という意識的な行為には
「遺伝子」という肉体に影響を及ぼす力があることを、
実感するようになってきたのです。
現在、世界や国内で起きている理不尽なことに対して、
自分の力では何も変えられないと感じることが多いかもしれません。
でも、「祈り」には明らかに形作る力があるのです。
その仕組みはやがて科学的に解明されていくのではないかと思います。
いっぽう、祈りによって自分が望む何かを「引き寄せる」ことにばかり
頑張ることは、また心を窮屈に固くさせてしまうことになるかもしれません。
村上先生は、受容のこころ、無の祈りという、ある意味「サレンダーする」
事もまた、遺伝子オンの秘訣であることを教えて下さっています。
今回のキーワード:
・「祈り」は、いずれは解明される可能性を秘めた科学である
・受容の心、何も望まないという「無の祈り」もまた遺伝子をオンにする方法
「幸せになる遺伝子の使い方」(海竜社)
第5章 今の科学が解明できなくても存在する祈りによる「奇跡」
からの抜粋(文中… 中略マーク)
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前章にてご紹介した工藤房美さんは、末期のガンで余命1か月と
診断されたにもかかわらず、医師が不思議がるほど回復してしまいました。
このように、治療によるものではなく治ってしまうことを、医学用語では
「自然寛解」と呼んでいます。これは、理由がよくわからないまま、病気の
症状が消えてしまった状態のことです。
こうした不思議な体験をしたガン患者に、「なぜ治ったと思うのか」と聞くと、
もっとも多かった答えは「祈ったから」というものでした。いわば、「祈り」に
よる「治療」が「自然寛解」を起こしたと言えるでしょう。
…
それでは、この「自然寛解」が起きるか起きないかは、何が決めるのでしょうか。
多くの科学者は、遺伝子が関係していると考えていて、私もそう思っています。
人は、強い願望を持つと祈ります。その結果、その願いは遺伝子に通じ、遺伝子の
スイッチをオンしたのでしょう。歩行も困難なエイズ患者が、仲間とともに祈ったら、
半年で回復したなどの例も、遺伝子がオンしたからにちがいありません。
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プラシーボがなぜ、多くの患者に効果的なのか。さまざまな研究の結果、脳内で
エンドルフィンが分泌されることで、痛みを抑えたり、免疫力を活発化させたり、
気分をリラックスさせていることがわかりました。
効果が科学的に立証されたことで、プラシーボ効果については、ほとんどの医療
関係者が認めています。そして、「祈り」についても、プラシーボ効果のひとつと
認識する関係者も多いのです。
ところが、「祈り」の効果には、プラシーボ効果では説明できない部分があります。
それは、前にも紹介した心臓病患者対象の実験で明らかになったように、他人が
祈ってくれた場合も効果があるということです。
あるいは、遠い場所での「祈り」で、患者が祈られているとは知らない「祈り」
でも同じような効果があるということです。
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その医師の息子は18歳、悪性の腫瘍と診断されました。若いだけに悪い細胞の働きも
活発で、進行は早く、最先端の治療も効果があがりませんでした。最後の手段とばかり、
父親が試みたのが「祈る」ことでした。
その父親は、自分だけではなく、同僚の医師にも参加してもらって、「ヒーリング集会」
を開催しました。中には、半信半疑の人もいたのでしょうが、父親の必死の姿に、その
集会には60人もの人が参加してくれました。
するとどうでしょう。集会から10日経ったとき、脳腫瘍は消えていたのです。
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その奇跡が起きた事実を知れば「何かが働いている」ことを信じることができるでしょう。
そういう意味で、「祈り」は、いずれは解明される可能性を秘めた科学であるともいえます。
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絶体絶命のときには何もしないという「無の祈り」
「鉄の一念岩をも通す」という言葉があります。これは、古代、中国の李広という人が、
岩を虎と間違えて弓矢で射たところ、岩を貰いたという故事がもとになっています。
「祈り」の効果も、これに似て、熱く強い思い(一念) を持てば願いは叶うと思いがち
ですが、そうとも言えません。子どもの成績を上げたいという強い思いも、子どもを
萎縮させてしまう可能性があるからです。
私たちは、絶体絶命の状況に追い込まれたとき、なんとか解決して、その状況から逃れたい
と思ってしまいます。しかし、人生には、治療法がない難病にかかるなど、このように、
絶体絶命、万事休すしたときは、「何もしない」という逆説的な「祈り方」もあります。
これは、「祈らない」ということではなく、「強く願うのはやめて、もう何も望みません」
という「祈り」の一種の形です。言ってみれば「無の祈り」と呼べる「祈り」です。
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人は、人を励ますとき、気軽に「がんばれ」「もっと強くなれ」という言葉をかけます。
しかし、苦しんでいる人に「がんばれ」は禁句です。「がんばるぞ」と思いすぎると、
本来持っている生命力を生かすことができなくなることがあるのです。
追い詰められてどうにもならないときは、むしろ、のびのびと自分の状況を受け容れる
ことです。「ああそうなんだ」という受容の心は、何も望まない「無の祈り」に通じます。
それがいい遺伝子をオンにするひとつの方法なのではないでしょうか。