「致知」連載第十六回・生命科学研究者からのメッセージでは2006年11月に開催された、ノーベル賞受賞者三人による広島国際平和会議を取り上げました。村上は受賞者の一人であるダライ・ラマ法王からの打診によって会議のコーディネーターを務めました。

村上和雄のメッセージ
なぜ今この会議のことを取り上げたのか?それは、
「今が人類の分水嶺の時であると感じるからに他なりません。もしあのメッセージを無視してしまったら人類は今世紀末には滅亡してしまうかもしれない、それほどの危機感を抱いているからです。」「私はこの会議が広島で行われた意義をあらためて、いや、何度も何度も日本人として考えなければならないと思っているからです。」
ダライ・ラマ法王のメッセージ
「人類には普遍的責任がある」
人間は社会生活を営む生物である以上、個人の幸せは社会に依存している。経済や人口増加や環境問題など、あらゆる事象がグローバル化した「ニュー・リアリティー」(新たな現実)の時代だからこそ、世界全体を‟人類家族”と捉える考え方が重要だ。その意味で、人類一人ひとりが「普遍的責任」を負っているのである。
平和の対極にある戦争では、相手を敵と見なすが、敵を害することは自分を害することにつながる。利己的な態度を改め、相手の「痛み」を想像しなければならない。すべての人間は他者を思いやる心をもつ。すべての人間は母親から生まれる。そして、母親から無私の愛情を注がれて育つ。他者への思いやりの心は、母親によって育まれるのだ。

ベティ・ウィリアムズ氏のメッセージ
「母性のもつ強さ、親心こそ世界を変える力」
平和とは自分からはじまるものです。人間ならば誰しも、時には暴力的になってしまうものでしょうし、特に私はそうです。子どもたちが傷つけられるのを見ると、とても腹が立ちます。しかしそこで私は毎瞬間、自分と格闘します。怒りを破壊的な行為へと向けるのではなく、ポジティブな感情へと転換しようとしています。怒りは意味があることのために使わなくてはなりません。また、平和とは家庭から始まるものです。私は世界平和を訴えるためには、それに先立って自己の平和と家庭の平和を実現しなければならないと考えております。
息子のポールがある年齢になった頃、人からよく 「男の子なのだから泣いてはいけない」と言われていました。つまり、泣くのは男らしくないというのです。よくも子どもに向かってこんなことが言えたものです。一体どうして男の子は泣いてはいけなくて、女の子は泣いても構わないのでしょうか。このような決まりは古めかしく、馬鹿げています。ですから私は息子にこう言い続けてきました。「男だって涙を流すものよ。人に涙を見られるのを恐れてはいけません。真の男は涙を流すのだから」と。
女性のみなさま、ご家庭で自分の息子をどのように扱うのかというのは大切なことです。調和の取れた男性に育てるためには、感情も含めてあらゆる感性を育成しなくてはなりません。特に男の子にとって、感情を表に出すことが許されるということは非常に大切だと思います。
デズモンド・ツツ大主教のメッセージ
「赦す」ということ
アパルトヘイト政策が終わりを告げたとき、多くの人々は、残虐な報復行為が起こるのではないかと考えた。しかし、それは起こらなかった。むしろ、和解のための委員会が開かれた。それは、長い間虐げられてきた黒人が、仲介者である国連の助けを借りながら、寛大な精神をもって赦そうとしたからだ。
たとえば、自分の身に何か悪いことが起こったとき、人はそれを忘れてしまおうとする。しかし、それは潜在意識に入り込み、あるとき突然“化け物” となって現れることがある。不幸な出来事に対する、もう一つの方法がある。それは現実を直視することだ。感情的には非常な困難が伴うが、南アフリカでは、まさにそれが行われている。人は変わる。善良な人間になることができる。きのうの敵でも、あすは友になれる。これが南アフリカで起こっている。ならば、世界中のどこでも可能なはずだ。私たちは共に生きるために、人類という一つの家族になるために創造されたのだから。そうでなければ、この地球上で生きていくことはできない。ほかに選択肢はない- 。
いま、村上は考える。「世界の平和のために、俯瞰した立場から大いなる働きをできる国があるとしたら、それは日本しかないのではないだろうか」と。