こころじ~んブログ

『祈り~サムシンググレートとの対話~』期間限定公開(4月24日~5月10日)のお知らせ

村上和雄先生の「祈り」の映画を作成した白鳥哲監督の地球蘇生プロジェクトの映画7作品が5月10日まで限定公開されることになりました。

これまで村上和雄先生の「祈り」の映画観る機会がなかった方々も、観た方々も是非ご覧ください。コロナウイルスがもたらした様々なピンチを、新たなステージへの飛躍のチャンスに変えるためのヒントになりましたら幸いです。

『祈り~サムシンググレートとの対話~』(2012)90分

 

視聴方法
1.リンクをクリック
2.Vimeoにログイン または アカウント登録
(お名前とメールアドレス、お好きなパスワードを入力)
3.お支払い(クレジット または Paypal)
4.48時間鑑賞できます

その他の下記6作品も下記リンクよりアクセスできます
『蘇生Ⅱ~愛と微生物~』(2019)91分
『リーディング~エドガー・ケイシーが遺した、人類の道筋。~』(2018)96分
『蘇生』(2015)90分
『不食の時代~愛と慈悲の少食~』(2010)84分
『魂の教育』(2008)100分
『ストーンエイジ』(2005)109分

『致知』連載第十一回「御代替わりに思う天皇家の存在」

『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。五月号のテーマは

「御代替わりに思う天皇家の存在」  以下、御代替り直前の記事の要約です・・・

新元号のもと、新たな時代の幕開けを迎える日本。時代の荒波を乗り越え二千年以上に渡って存在する天皇家と日本文化との密接な関係を紐解き、御代替わりへの想いを村上和雄が綴ります。

日本文化における特徴の一つに、今日に至るまで優に二千年以上にわたって続いてきた天皇家の存在が挙げられます。今年は御代替わりの年とあって、この日本文化の特徴が改めて世界から注目を集めています。我われ日本人にとっても大きな関心事であって、こうした時代の節目に立ち会えることに私は深い感慨を覚えるのです。これまでに二度、私は天皇皇后両陛下と親しく接する機会を賜ったことがあるだけに、余計にそう感じるのかもしれません。

初めて両陛下にお目にかかったのは、日本学士院賞を受賞した一九九六年のことでした。授賞式当日には、研究成果についてご進講の機会も頂戴しました。二度目にお目にかかったのはその数年後のことで、皇居にあるご自宅にお招きいただきました。

両陛下のご自宅といっても、なかなか想像できないかと思いますが、こぢんまりとした印象で、とても質素に生活されているのが分かりました。我われにとって最高のご馳走というべきは、やはりテーブルを挟んで両陛下と一時間以上にわたって親しくお話ができたことでしょう。終始和やかでいらっしゃることに加えてお二人の夫婦仲も大変よく、お互いに労り合っておられるお姿は、いまも記憶に新しいところです。

ご公務は実に様々ですが、歴代の天皇にとって最も大切なお務めがあります。それは「祈り」です。天皇家に古代から伝わる宮中祭祀、いまも毎年恒例の儀だけで年間約二十回、その他毎月の旬祭などを含めると、その数は四百回を遥かに超えるといいます。天皇とは祈る君主であって、こうした一つひとつの祭祀を行う中で、国家の繁栄と国民の安寧を祈願してこられたのです。

また、日本列島が天災に見舞われるようなことがあれば、「この天変地異は私の不徳の致すところです」という思いのもと、命懸けの祈りを捧げられるのも歴代天皇のお務めでした。それは天照大御神をはじめ八百万の神へのお詫びであって、「私」のない祈り、つまり無私の祈りなのです。

日本の天皇はまさに利他の象徴とも言える存在ですが、二千年以上にわたって国家の中心的地位におられるというのは世界にも他に例がありません。なぜそれが可能だったかと言えば、天皇が権力を持たなかったことが理由として挙げられるでしょう。歴代の天皇は兵力を持つことはなく、千年以上にわたって住まわれていた禁裏御所には石垣はおろかお濠すらありませんでした。権力はなくとも権威の象徴であったことが、天皇家を長きにわたって存続せしめたのでした。

日本の歴史を俯瞰すると、連綿と続く天皇家が不易として存在する一方、様々な文物を実に柔軟に海外から取り入れてきたことで不易流行という絶妙のバランスを実現していたことが見えてきます。

多様な価値観というのもまた日本文化の一つの特徴を成していますが、そこには太古から大自然と共生する中で大自然を尊び敬う想を生み、それを伝統的に継承してきた点によるところが大きいと私は考えています。

稲作は天皇とも深い関係にあります。

天照大御神は高天原にある稲穂を天忍穂耳命に授けられました。そしてその稲穂を受け取った天忍穂耳命の子・瓊瓊杵尊が、国の始まりを意味する天孫降臨を果たしたのです。そういった大切な場面に稲穂を描いたということは、それほど日本人にとって稲は大切な食物であったといえるでしょう。

新しい元号に代わるわけですが、この元号が「昭和」で終わっていたかもしれないことは意外と知られていません。そもそも日本で初めて元号が使われたのは、遡ること西暦六四五年のこと。元号名は「大化」です。その後、元号は千三百年あまりにわたって日本独自の紀年法として使われてきました。

ところが戦後になると、日本学術会議が「元号を廃止し西暦を採用するべき」との申し入れを政府に対して行ったのです。昭和二十五年のことでした。日本学術会議とは学者の世界における国会に相当する機関で、その申し入れには、元号には科学的な意味がなく、天皇統治を表す元号は国民主権国家に相応しくないという理由が掲げられていました。

その後、この問題は政治的な問題として長いこと議論がなされ、「元号法」が法制化されたのはなんと昭和五十四年になってからのことです。そして昭和六十四年一月七日に昭和天皇が崩御された際に、新元号の「平成」が元号法のもとに制定されたのでした。

新元号には、気を刷新する力が秘められているように私は思うのです。

『致知』連載第十回「冒険家・三浦雄一郎の生き方から学ぶこと」

『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。四月号のテーマは

「冒険家・三浦雄一郎の生き方から学ぶこと」

以下要約です・・・

南米大陸最高峰のアコンカグア。八十六歳の三浦雄一郎氏は、この標高六千九百六十一メートルの頂点を目指して、今年一月に現地へと向かった。しかし、標高約六千メートル地点まで進むも、同行した医師の判断に従ってそれ以上の前進を断念。登頂という偉業達成は、残念ながら実現には至らなかった。

しかし、村上は、「結果はどうであれ、加齢による衰えに屈することなく、挑戦する心を持ち続ける冒険家・三浦雄一郎氏に敬意を表したい。なぜなら彼の生き方は、人間の可能性を強く信じて一歩一歩努力を重ねていけば、未知への扉は必ず開くという実例を、私たちに示し続けてきてくれたから」と賛辞を贈る。

三浦雄一郎氏といえば、二〇〇三年、七十歳にして世界最高齢でエベレスト登頂を果たし、その後、七十五歳、八十歳でも登頂を成功させた世界的な冒険家である。村上は雄一郎氏と十年来の親交を持つ。なぜ前人未到の挑戦を続ける雄一郎氏のような冒険家が生まれたのか?村上は、彼を取り巻く環境、ひいては彼の積極的な生き方そのものが遺伝子のスイッチをオンにした、と考える。

 雄一郎氏は、日本初のプロスキーヤーとして生きる道を模索していた二十代後半、一九六四年のイタリアで開催されたスピードスキー競技「キロメーターランセ」の世界大会に出場し、当時日本人初参加のこの大会において、世界記録を叩き出した。

雄一郎氏の中にあった、「人がやらないことをやって生きていこう」という遺伝子のスイッチはオンになったのだ。

そしてその後、パラシュートでスピードを制御しながら行った富士山直滑降、さらに一九七〇年には、エベレスト大滑降をやってのけた。直滑降している時の時速は実に百八十キロメートルにもなるというのだから、驚くばかりである。まさに世界中の人々の度肝を抜いた挑戦であった。そして、一九八五年には七大陸最高峰すべてで滑降を実現したのだ。

しかしその後、彼は、日本各地から講演会に招かれ、歓待され、美味しいものを食べ続け、体重は増え、ついには標高五百メートルの山にすら息が上がって登れないような状態になってしまう。そんな雄一郎氏を横目に淡々とトレーニングを重ね、モンブランで最も長い氷河のスキー滑降をはじめ、世界の山々を滑り歩いていたのが、まもなく九十歳を迎えようとしていた父・敬三氏だ。また、次男の豪太氏はリレハンメル冬季オリンピックにおいて、モーグル選手として活躍していた。

このままではいけない。そう思って雄一郎氏が自らを奮い立たせ、再び立ち上がろうとしたのは六十五歳の時。それが七十歳にしてエベレストに登頂するという宣言だった。人は幾つになっても、自ら目標を立て、それに向かって努力を続けていけば必ず夢は叶う。そのことを、彼は七十歳にして証明して見せた。

七十五歳で再びエベレスト登頂を果たした雄一郎氏だが、実はこの時、不整脈(心房細動)という大変なリスクを抱えていた。権威ある医師たちから計画反対の声が上がる中、手術を請け負ってくれる医師と巡り合い、彼は世界最高齢でのエベレスト登頂という記録を打ち立てた。

しかもこの後、スキー中に腰の骨を折り、寝たきりになってしまうような大怪我をして、なお、リハビリを乗り越え、八十歳でみたびエベレスト登頂に成功するという、偉業をやってのけたのだ。

「年を重ねても何かに挑戦する情熱と勇気、そしてそれを達成させるための強い執念によって人生は明るく楽しくなる。そして、生き甲斐は人に想像以上のパワーを与えてくれる」  

雄一郎氏のこの言葉に、村上は深い共感を覚えるという。村上が六十三歳で大学を退官した際、将来に対する不安といったものより、むしろ新しいことに挑戦しようというワクワクした気持ちが大いに勝っていた、というのだ。

村上は、雄一郎氏の生きる姿勢から、人間の持つ情熱、強い思いというのは、身体全体の働きを活性化させる、という確信を得たのだ。

『致知』連載第九回「江崎玲於奈先生と私」

『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。三月号のテーマは「江崎玲於奈先生と私」

以下、要約です…

一九七三年にノーベル物理学賞を受賞され、九十歳を超えられたいまなお現役で活躍されている江崎玲於奈氏。アメリカを拠点に研究活動を続けていた江崎氏が1992年に日本に戻ってくるきっかけとなったのは、筑波大学学長就任でした。その立役者の一人が村上和雄です。

筑波大学は一九七三年の発足時に、「開かれた大学」「柔軟な教育研究組織」「新しい大学の仕組み」といった基本理念を掲げていたものの、既に当初の勢いは失われつつありました。また、優秀な人物が他の大学に引き抜かれるといったこともあって、何か手を打たなければという思いに駆られていたのです。

そのなかで出てきたアイデアが、「江崎玲於奈先生」を筑波大学の学長に、だったのです。

もっとも、江崎先生にはすぐにご快諾いただけたわけではありません。学長になっていただくには、アメリカから日本への移住、そして民間企業から国立大学の学長になるという二つの大きな障壁があったからです。それから二、三年を経てようやくのこと正式な出馬表明をしていただく運びとなったわけですが、いざ出馬となった時点で、学内派と呼ばれる人たちからの反対の声が強く、学内が真っ二つに割れてしまった。そのため、選挙戦は相当の苦戦でした。

村上は若手研究者に、「江崎玲於奈先生を推す若手の会」の発足を促し、江崎先生への質問事項をまとめた「若手教官から江崎玲於奈博士への要望」を、直接江崎先生に送ったのでした。するとすぐに返事がファクスで届きました。タイトルは「若手への道」。その全文が、江崎先生の直筆で綴られていたのです。「これがあれば、勝てるかもしれない」。そう直感した村上は、ファクスのコピーを取ると、早速学内中に配り始めました。既に学長選まで残された時間はあと一週間。いまだ有効な手立てを打てぬままにいた時のことでした。すると、どうでしょう。この一件で形勢が大きく動き、若手の圧倒的多数が江崎先生の支持に回ったのです。その結果、学長選挙当日には一回目の選挙で江崎先生が圧勝し、遂に筑波大学の五代目学長への就任が決まったのでした。まさに逆転満塁ホームランさながらの出来事だったのです…

江崎先生直筆の“若手への道”

 先ず、若手の方々から、このような声が上がったこと自体、私は大へん嬉しく思います。皆さんは、当然、筑波大学の一翼を担い、教育と研究活動になくてはならない役割を演じておられるに違いありません。そして今回、若手にまつわる諸問題を提示され、その改善を通じて「筑波大学の再建と発展に尽くしたい」という意志を伝えて下さったこと、大いに心強く思いました。たしかに、筑波大学だけでなく、一般的に日本の社会は、「長幼序あり」とか「大器晩成」などの通念のもと、若手は割の合わない仕事を押しつけられ、独自性をもって自由闊達な活動ができ難い風土です。更にまた、アメリカに比べますと、教育においても、わが国では若者を自己の価値観を備えた真の意味の独立人間として育てていない側面もあります。こう考えますと、要望書の中にある皆さん方の不満は、日本のカルチャーに関係するだけに根の深いものがあるように思われます。

 ところで一方、文化、学術上の革新の多くは、歴史的にみても、統計上も、若手によってなされていることは周知の通りです。今世紀の初頭、古典力学に挑戦して量子力学を確立させた若手研究者をみても明らかです。私ごとですが、ノーベル賞を戴くことになったエサキトンネルダイオードは私が三十二才のときの仕事です。(中略)

 私はよく若い研究者に、冗談半分なのですが、ノーベル賞受賞のため、してはいけない五つの条件を話します。

一、従来の行き掛かりにとらわれてはいけない。若者はせっかくの飛躍のチャンスを見失うからです。

二、大先生にのめり込んではいけない。自由奔放な若さを失う。

三、何でも溜め込んではいけない。若者でも脳のメモリー容量には限度がある。無用のものは捨て、新知識のためのスペースをあける。

四、戦うことを避けてはいけない。若者は独立精神と勇気を失う。

五、不感症になってはいけない。自然の驚異に感動する初々しさを失う。

勿論、これは必要条件、充分条件ではありません。私達が研究を進めるモードを敢えて二つに分けますと、一つは常に相手を意識し、競争心に燃えて仕事をする競争モードと、もう一つは、わが道を行く、自分の道を切り開く独自モードです。後者はリスクも多く、険しいかもしれませんが、過去の例をみても新しい萌芽が生まれる創造的業績はこの道を選んだ若者達によって成就されています。(中略)

 私が学長になり、筑波大学の発展と日本の学術の振興に、いささかの貢献が出来るのではないかと思い至ったのは、実は皆さん方若手に賭けているのだ、ということを知って戴きたいと思います。

学長退任後も筑波との縁を第一に考えられた江崎先生は、茨城県科学技術振興財団で理事長を務めるなど、地元つくばの活性化のために、そして日本の科学発展のために、いまなお尽力してくださっています。

・・・若い人たちのエネルギーを存分に生かし切れない、むしろ型にはめたり押さえつけたりする日本社会の息苦しさは当時も今も、あまり変わっていないように感じます。そして、この手紙を読んだ若い研究者たちが、江崎玲於奈学長誕生に、熱い希望を持ったであろうことが、時空を超えて感じられました。

研究業績:Human Genomics に採択されました

2017年12月8日投稿の再掲です。

Human Genomics

Distinct Transcriptional and Metabolic Profiles Associated with Empathy in Buddhist Priests:       a Pilot Study

 

村上が魂を込めて取り組む「祈りと遺伝子」研究の成果第一報が、Human Genomicsの9月付けに掲載されています。

https://humgenomics.biomedcentral.com/articles/10.1186/s40246-017-0117-3

論文タイトル下記

Distinct transcriptional and metabolic profiles associated with empathy in Buddhist priests: a pilot study

Junji Ohnishi, Satoshi Ayuzawa, Seiji Nakamura, Shigeko Sakamoto, Miyo Hori, Tomoko Sasaoka, Eriko Takimoto-Ohnishi, Masakazu Tanatsugu and Kazuo Murakami

Human Genomics (2017) 11: 21

密教仏教僧侶と一般人の比較を行った結果、僧侶群に、慈悲の心に通ずる「共感性」と関連する「抗ウィルス性遺伝子」「血中代謝物マーカー」を見出しました。このことは、継続的な宗教的行為(祈りなど)が心身の健康を強化する、という仮説の実証になると考えています。私たちは今後も、宗教性と遺伝子発現に関する研究を深化させてまいります。

天草シティFM「みつばちラジオ」で村上和雄が語ります

タイトル  「幸せの遺伝子が目覚める話」

放送予定日  2019年1月29日(火)、30日(水)

午前5時~5時半・再放送同日午後3時~3時半

放送媒体   天草シティFMみつばちラジオ周波数 88.8㎒

インターネットサイマルラジオ https://fmplapla.com/mitsubachiradio/

花咲実の幸せラボ(HP) http://hanasakiminoru.info/

聞き逃した方は上記のHPで後日放送内容がUPされるのでチェックしてみてください。

「心が遺伝子のスイッチをONにする」堀田力氏と村上和雄の対談

さわやか福祉財団会長 堀田力氏と村上和雄が「心が遺伝子のスイッチをONにする」をテーマに対談し、『さぁ、言おう』(さわやか福祉財団月刊情報誌)2018年10月号「生きざまストーリー」に掲載されました。

「生きざまストーリー」10月号  PDF: http://mind-gene.com/file/190117.pdf

月刊情報誌『さぁ、言おう』(公益財団法人さわやか福祉財団)2018年10月号から転載

さわやか福祉財団は「新しいふれあい社会の創造」を基本理念としてボランティアや地域における住民主体の助け合い活動の普及・啓発、政治・行政への提言、新しい生き方の提案を行っている公益財団法人です。

夢・ふれあい社会 公益財団法人さわやか福祉財団https://www.sawayakazaidan.or.jp/publication/sah_iou.html

リンク

公益財団法人 日本スポーツ協会発行の情報誌「Sport Japan」の41号では〈特集〉“ストレスをプラスに変えると……” ストレスがある、だからこそスポーツは魅力満載!と題しまして、スポーツにおける「ストレス」に焦点を当てております。
その中に、「遺伝子レベルで考える 陽性ストレスは人を未知の世界にも導く」というタイトルで村上の記事が掲載されております。

「・・・火事場の何とかのように、予期せぬ力を発揮することもある。眠っている遺伝子に働きかけられれば、可能性は広がることを物語っています。
・・・スポーツのだいご味は、競争して№1になることもその一つですが、オンリーワンになれるのもまた確かでしょう。オンリーワンになるために磨きをかけるには、どんなことに向いているのか知ることもまた大切です。
・・・ネガティブなストレスをポジティブに変える。
・・・固定観念にとらわれず、柔軟性を持って限界を決めず、人間は未開発の情報を持っていること、そして無限の可能性があることを理解させる・・・」

トップアスリートなら自身でストレスを楽しみに変える力があるのかもしれませんが、一般の人はどうすればいいのでしょうか。スポーツ指導者が、どのようにストレスを活用していけば、プレーヤーをさらなる高み、あるいはさらなる楽しみの世界へと導けるのでしょうか。そういう事へのヒントを村上の言葉で語っております。
スポーツをやられる方もやられない方も、村上の言葉で勇気をいただき、新たな可能性が広がっていくかもしれません。

Sport Japan 2019年1・2月号(vol.41)
https://www.japan-sports.or.jp/publish/tabid661.html?pdid=148

『致知』連載第五回「ヒト・レニン全遺伝子暗号解読の軌跡」

『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。                                                     十一月号のテーマは「ヒト・レニン全遺伝子暗号解読の軌跡」です。

新生・筑波大学を国際的な大学にするため、三年・千日と日を区切って、研究に邁進した村上和雄。そこからは、白鳥哲監督制作の映画「祈り」でも描かれた、天が味方してくれたとしか言えない、ドラマティックな出来事が起こります。脳内レニンの正体を解明するために、牛の脳下垂体からレニンを取りだすことを考えた村上は、その材料調達のために筑波から東京・芝浦の食肉センターに通い続けます。そして、断られても断られても、牛の脳下垂体を譲ってもらえるよう頼み続けました。とうとう根負けした食肉センターの責任者の方は「大学の先生にこれだけ頭を下げられたんじゃ、断れねぇや」と言ってくださったそうです。それからは、研究室の全員で、毎日毎日、冷凍された栗の渋皮を剥くような難しくも単調極まりない脳下垂体の皮剥き作業に取り組みました。それはおそらく多くの人が抱く研究のイメージからは、かけ離れた単純な肉体労働だったと思います。でも、村上は研究室のメンバーに「これさえできれば世界的な研究ができる」と言って励まし続けました。そして遂に牛三万五千頭分の脳下垂体から0.5ミリグラムのレニン純品を取り出すことに成功したのです。この成果を1981年のドイツ・ハイデルベルグで開かれた国際高血圧学会で発表した村上には、万雷の拍手喝采と「ドクター三万五千頭」というニックネームが送られたのです。

しかし村上の挑戦はまだまだ続きます。新しい遺伝子工学の手法で、ヒト・レニンの大量製造と、レニンの基本構造の解明というテーマに取り組んだのです。そこではパスツール研究所やハーバード大学という横綱級がライバルでした。さすがの村上も諦め半ばだった時に、学会で訪れたドイツ・ハイデルベルグの学生街のカフェで、旧知の間柄であった京都大学教授、中西重忠先生とバッタリ出会います。そこで村上は研究の窮状を語ったところ、中西先生は研究室を上げて全面的に協力することを申し出てくれたのです。そして遂に奇跡は起こり、ライバルを抜き去って、世界で初めてヒト・レニンの全遺伝子解読に成功しました。まさに、「天は自らを助くるものを助く」という言葉を思い出さずにはいられません。

『致知』連載第四回「私の研究人生を決めた「酵素レニン」との出合い」

『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。十月号の

写真:致知2018.10月号より

テーマは 「私の研究人生を決めた「酵素レニン」との出合い」。研究者にとって研究テーマとの出合いは、伴侶との出合いにも例えられる、運命的なものかもしれません。村上にとってその後の研究人生を決定づけたのが、高血圧の黒幕「酵素レニン」との出合いでした。レニンの純化に世界で初めて成功し、厳しい成果主義のアメリカで、研究者としての実力と評価を確固たるものとしたのです。このままアメリカで研究人生を極めようと決めた矢先に、恩師満田先生から、「筑波大学というアメリカ的な大学を日本につくるから帰ってこないか」と言われ、村上の研究人生は新しい展開を見せます。今でこそつくば市は研究学園都市として高い知名度を誇っていますが、四十年余り前の当時は、道路も整備されておらず、一面に田んぼが広がり、食事をする場所もなかったそうです。新設された筑波大学も、実験室は完成しておらず、村上も正直「失敗したか」と、思ったようです。それでも数年すると校内の研究施設も整い、村上は「筑波大学を国際的な大学にする」という高い志をもって、教育・研究と大学管理職の仕事にその情熱を傾けていくのです。      写真の村上和雄の目ぢからがすごい!