こころじ~んブログ

音楽を通じて与えられた自分の役割を果たす『致知』9月号

写真撮影:山下武

「致知」 生命(いのち)のメッセージ 連載第105回目の対談は、ニューヨーク・シティ・オペラで正指揮者を長年務めるなど、世界で認められるプロ指揮者・山田あつし氏。一度は病のために音楽の道を諦めるも、被災地支援活動をきっかけに再起を果たし、いまも多くの子供たちに夢と希望を与え続ける。そんな山田氏の活動を、村上和雄が伺いました。一部をご紹介いたします。

山田あつし氏は東日本大震災の被災地支援プロジェクト「ハンド・イン・ハンド」の活動を続けていらっしゃいます。これは、被災地3県(岩手・宮城・福島)の高校生を中心とした合唱団を結成してニューヨークに連れて行き、現地のプロの声楽家や大学生たちとともに、リンカーン・センターで共演するというプログラムで、震災翌年からスタートし、今年の3月で6回目を迎えたそうです。始めたきっかけとは…

山田 「僕の職歴とも関係するのですが、もともと僕は音大を出ていないんです。早稲田大学で地学を勉強して、卒業後日本IBM の営業、ソニー生命の保険外交員を経て、32歳でニューヨーク・シティ・オペラに入りました」

村上「それはまたえらくユニークなご経歴ですね(笑)」

山田 「・・・高校時代に合唱団に入って・・・大学でも、「早稲田大学グリークラブ」で歌っていまして、そこで指揮をしてくださっていた福永陽一郎先生が僕の恩師なんです。大学をでたらもう一度音楽を勉強し直したいと思っていたのですが、『日本は音大の免状がないと仕事がないぞ』と諭されて、日本IBMに就職しました。ところが3年後に福永先生が他界されて、先生はアマチュア団体を始めいろんなところで指揮をされていたため、僕に先生の後釜になってくれという話がいくつかきたんです。」

「その後3回忌の時に同じことをお願いされて困っていたところ、ソニー生命からヘッドハンティングで声がかかって、会社は月木の午前中だけいけばOKだったので転職とともにアマチュアとして音楽活動を再開しました。」

やがて山田氏は会社からのサポートもあり、阪神淡路大震災後に地元のオーケストラと組んで被災した方を励ますための演奏会など、音楽を通した社会貢献を続けられたそうです。その活動の中で、被災地に対する支援は物資だけではなく、災害を被った人たちが自分たちの手で復興していくための知恵を得る方法が必要と考え、それが「ハンド・イン・ハンド」に繋がったそうです。

山田 「実は2007年、46歳の時に病気で倒れまして、一命はとりとめましたが左半身が全然動かない。当時ニューヨークではオペラを月に20本とか、他のオーケストラの仕事に加えて東ヨーロッパに行くなど、移動かリハーサルか本番か、みたいな生活が5年くらい続いていました。当然指揮は無理だし、普通の生活もままなりません。当時はほぼ人生諦めていました。収入もなくなり、保険には入っていなかったので障がい者手当をもらって鬱々としながら毎日を過ごしていました。」

村上「よくその状態から復帰することができましたね。」

山田 「1年半くらいはそんな状況でしたけど、ある日指揮の依頼がイスラエルのエルサレムから届いて、何だろうと思ったら、僕が倒れる3年前にエルサレムにある音楽アカデミーのオーディションがあって、その結果がなぜかそのころに届いた。主治医に正直に事情をお話ししたところ、まだ時間があるから頑張りましょうと言ってくれたので、そこからですね、身を入れてリハビリに取り組み始めたのは」

「おかげさまでその演奏会を何とか終えることができたんですけど、客席には僕がお世話になっていた国連大使の大島賢三さんが親しくされていたイスラエルの外務省の方々が聴きに来てくださっていて、公演後に話をしていて、翌年の日本とイスラエル国交50周年国際交流フォーラムのプロデュースを依頼されました。その準備中に東日本大震災が起きて、フォーラムは中止になったのですが、その企画を被災地復興支援に使えないかと、大島さんからのアドバイスがあって、「ハンド・イン・ハンド」に繋がっていったのです。」

村上「しかし、アマチュア指揮者からニューヨーク・シティ・オペラでプロの指揮者に上りつめられたというのも並大抵のことではないと思うな」

山田 「どうせ指揮者になるなら小澤征爾さんみたいに世界の舞台で働きたいと思ったんですが、そのためにどうすればいいかわからない。とりあえず、自分でホールを借りてオーケストラや歌手を雇いながら演奏会をやって、5年目には念願のオペラで指揮を振ることができたんです。そのオペラで日本の若者にチャンスをあげようと、歌手は日本人を集めたのですが、彼らから『なんで音大も出ていない保険屋に指揮されなきゃいけないんだ』といわれて」

「悔しくて、それならいっそアメリカで勉強したいと、無謀にもニューヨーク・シティ・オペラを訪ねて、うまいこと音楽監督の助手として入れてもらえたんです。ただし、給料は払いませんよと。その代わり週に一回音楽監督が僕に教えてくれる、それでいいか、と。そのとき、ソニー生命会長の盛田正明さんが救いの手を差し伸べてくれて、休職手続きの手はずや営業活動支援をしてくださったんです」

全てを捨ててゼロから始める覚悟をもってつかんだチャンス、また、その後も大変な病気を乗り越えられて、奇跡的な復活をされた、まさに「天は自ら助くる者を助く」という言葉を思い出すお話しです。

山田「一年後指揮者として正式に認められ、その後20年をニューヨーク・シティ・オペラで過ごしてきました。世界のトップアーティストとしての仕事ができて、世界の一流の現場でやっている人たちの音楽家としての姿勢を身近で見られたことはものすごく貴重でした」

村上「日本にいるとどうしても日本のことしかわからない。人間、自分が今いるところがすべてだと思いがちですけど、そうじゃないということがわかるのは非常に大切だと思います」

山田 「今先生がおっしゃったようなことは「ハンド・イン・ハンド」に参加した高校生全員が言いますよ。「アメリカに行って、初めて日本のことを見直せた」って」

村上「遺伝子にはオンとオフがあってそのスイッチが切り替わるには環境によるところが大きいんです。ですから、高校生たちの見方が変わったというのは、環境の変化と関係あるだろうし、震災に遭ったこととか、アメリカでの人との出会いというのも大きいと言えるでしょうね」

山田 「・・・僕は高校生に向かってよく言うんですよ。「今日この部屋にこのメンバーが集まる確率を考えてみよう」って。・・・人と人との繋がりっていうのは、とても貴重なことなんだよねって」

「僕自身、昔はそんなこと思いつきもしなかったんですけど、病気をして、とても復帰なんて考えられる状態ではなかった時期に徐々に考えるようになりました。ただ、半身不随になった直後は、とてもそんなんじゃなかった。なんでひと思いに殺してくれなかったんだろうって、ずっと思っていましたから。ところが、どういうわけか、東日本大震災を機に東北の高校生たちと出会い、合唱を教えるうちにどうやら自分の役割ってまだあるんだなと思いました。神様の存在とか、っていう見方が正しいかどうかわかりませんが、今は「自分をどうとでも使ってくれ」みたいな気持ちですね」

村上「魂を込めてという表現があるでしょう。人には魂のようなものがあることは直感的に感じているんです。我々の体の細胞はものすごい勢いで新しい細胞と入れ替わっている。しかも自分たちの体で何かを作り出しているというわけではなく、もともとは全部地球の元素であって借り物に過ぎないんです。ですから、時が来たら、いずれは返さなければならない。誰に返すのかといえば大自然で、だから我々は大自然に生かされているんですよ」

山田 「これからの自分の役割を考えた時に、やはりその中核が「ハンド・イン・ハンド」の活動で、少しでも社会のためになるような人づくりのお手伝いができれば・・・そのためには自分も人間的に成長しなければいけないのでできる限り頑張る、という感じですね」

全ての人が勇気づけられる対談でした。