『致知』連載第十一回「御代替わりに思う天皇家の存在」


『致知』連載中の村上和雄「生命科学研究者からのメッセージ」。五月号のテーマは

「御代替わりに思う天皇家の存在」  以下、御代替り直前の記事の要約です・・・

新元号のもと、新たな時代の幕開けを迎える日本。時代の荒波を乗り越え二千年以上に渡って存在する天皇家と日本文化との密接な関係を紐解き、御代替わりへの想いを村上和雄が綴ります。

日本文化における特徴の一つに、今日に至るまで優に二千年以上にわたって続いてきた天皇家の存在が挙げられます。今年は御代替わりの年とあって、この日本文化の特徴が改めて世界から注目を集めています。我われ日本人にとっても大きな関心事であって、こうした時代の節目に立ち会えることに私は深い感慨を覚えるのです。これまでに二度、私は天皇皇后両陛下と親しく接する機会を賜ったことがあるだけに、余計にそう感じるのかもしれません。

初めて両陛下にお目にかかったのは、日本学士院賞を受賞した一九九六年のことでした。授賞式当日には、研究成果についてご進講の機会も頂戴しました。二度目にお目にかかったのはその数年後のことで、皇居にあるご自宅にお招きいただきました。

両陛下のご自宅といっても、なかなか想像できないかと思いますが、こぢんまりとした印象で、とても質素に生活されているのが分かりました。我われにとって最高のご馳走というべきは、やはりテーブルを挟んで両陛下と一時間以上にわたって親しくお話ができたことでしょう。終始和やかでいらっしゃることに加えてお二人の夫婦仲も大変よく、お互いに労り合っておられるお姿は、いまも記憶に新しいところです。

ご公務は実に様々ですが、歴代の天皇にとって最も大切なお務めがあります。それは「祈り」です。天皇家に古代から伝わる宮中祭祀、いまも毎年恒例の儀だけで年間約二十回、その他毎月の旬祭などを含めると、その数は四百回を遥かに超えるといいます。天皇とは祈る君主であって、こうした一つひとつの祭祀を行う中で、国家の繁栄と国民の安寧を祈願してこられたのです。

また、日本列島が天災に見舞われるようなことがあれば、「この天変地異は私の不徳の致すところです」という思いのもと、命懸けの祈りを捧げられるのも歴代天皇のお務めでした。それは天照大御神をはじめ八百万の神へのお詫びであって、「私」のない祈り、つまり無私の祈りなのです。

日本の天皇はまさに利他の象徴とも言える存在ですが、二千年以上にわたって国家の中心的地位におられるというのは世界にも他に例がありません。なぜそれが可能だったかと言えば、天皇が権力を持たなかったことが理由として挙げられるでしょう。歴代の天皇は兵力を持つことはなく、千年以上にわたって住まわれていた禁裏御所には石垣はおろかお濠すらありませんでした。権力はなくとも権威の象徴であったことが、天皇家を長きにわたって存続せしめたのでした。

日本の歴史を俯瞰すると、連綿と続く天皇家が不易として存在する一方、様々な文物を実に柔軟に海外から取り入れてきたことで不易流行という絶妙のバランスを実現していたことが見えてきます。

多様な価値観というのもまた日本文化の一つの特徴を成していますが、そこには太古から大自然と共生する中で大自然を尊び敬う想を生み、それを伝統的に継承してきた点によるところが大きいと私は考えています。

稲作は天皇とも深い関係にあります。

天照大御神は高天原にある稲穂を天忍穂耳命に授けられました。そしてその稲穂を受け取った天忍穂耳命の子・瓊瓊杵尊が、国の始まりを意味する天孫降臨を果たしたのです。そういった大切な場面に稲穂を描いたということは、それほど日本人にとって稲は大切な食物であったといえるでしょう。

新しい元号に代わるわけですが、この元号が「昭和」で終わっていたかもしれないことは意外と知られていません。そもそも日本で初めて元号が使われたのは、遡ること西暦六四五年のこと。元号名は「大化」です。その後、元号は千三百年あまりにわたって日本独自の紀年法として使われてきました。

ところが戦後になると、日本学術会議が「元号を廃止し西暦を採用するべき」との申し入れを政府に対して行ったのです。昭和二十五年のことでした。日本学術会議とは学者の世界における国会に相当する機関で、その申し入れには、元号には科学的な意味がなく、天皇統治を表す元号は国民主権国家に相応しくないという理由が掲げられていました。

その後、この問題は政治的な問題として長いこと議論がなされ、「元号法」が法制化されたのはなんと昭和五十四年になってからのことです。そして昭和六十四年一月七日に昭和天皇が崩御された際に、新元号の「平成」が元号法のもとに制定されたのでした。

新元号には、気を刷新する力が秘められているように私は思うのです。